GRAFFITI AREA OF NO RULE 落書き無法地帯

奥山和由と映画 vol.3 スピード出世と裏腹に息苦しさが増してきた松竹期後半(映画ライター:吉田薫)

1990年、積極的な企画制作が認められて奥山さんは35歳の若さで取締役に就任。

1991年父親の融氏が社長に昇進すると、翌92年に彼は常務にスピード出世を果たします。
この頃は松竹第一興行に異動して椅子は重役室に移り、連絡はすべて秘書の晦日裕子さんを通すようになって、次第に雲上人へと変化していきました。

少し前までは昼休みに同僚たちと談笑しながら洋食屋「蜂の子」で行列する姿を見かけましたが、御簾の内側に隠れたように、その姿を目にしなくなりました。  

権力を持つとそこに群がる人たちも少なくありません。
私自身も「雑誌の対談ページのホスト役に奥山和由氏を起用します」「映画業界を志す若者たちに奥山和由氏からのメッセージを掲載します」と企画書に一行プラスするだけで、いくつもの仕事を手に入れることができました。  

周囲からも「奥山さんに会わせてほしい」「一度話がしたい」と数多く言われましたが、雲上人に会うことは容易ではありません。
外部ライターに過ぎない自分にそんな力はなく、「申しわけない」と断わるばかりでした。  

バブルが崩壊した1993年、日本は異常な冷夏に襲われ、深刻な米不足が全国で発生。世間にはまだ余力があり、ジュリアナ東京で元気よく踊る若者もいました。しかし広告業界は一気に冷え込み、友人の多くが人員整理に会いました。  

この年、『ソナチネ』が興行的に大敗。

「たけしさんは映画界のゴッホ。北野監督には商品としての価値よりも財産としての価値を求めてしまう」

と奥山さんは賛辞を送りましたが、この作品を最後に北野監督との蜜月は終わり、イケイケドンドンだった勢いにも陰りが見え始め、奥山作品は松竹期後半に入ります。

社内の反奥山色が顕著になり、企業の重役としての辛い立場に立たされるようになりました。  

映画誕生100年、乱歩100年、松竹100年を記念して作られた「RAMPO」では黛りんたろう監督と衝突し、奥山監督版も撮影されました。
奥山監督版のプログラムでその苦しい心情を次のように吐露しています。

「日本映画の疲弊した現実の中にあって喪失感をどうすることもできない自分と乱歩を重ねている」

「乱歩とともに自分の魂を見つめる力を回復し、見失いかけている幸福をつかみとりたい」

「映画製作という仕事が清濁合わせ飲んでいかなければ先に進めないという面を持つ職種であるうえに共同作業の産物であるから完璧を求めるのが現実的ではない場合が多い」   

この頃、「本気で松竹を辞めたい」と悩んでいたことを後年になって知りました。

外部の私から見れば、無邪気に映画づくりに熱中している奥山さんでしたが、「社員の多くは『この親子は何なのだろう?』と半分呆れ顔で見ていました」と融氏の近くで働いていた元社員は当時を振り返り、「これは私見ですが」と前置きをしたうえで次のように分析しています。  

「当時は私たちも和由さんと同じ気持ちで、松竹が作る映画と一般の人が観たいと思う映画との乖離が甚だしいと憂えていました。大船撮影所に行くと老スタッフが「映画は教育だ」などと唱えており、現状を打破したかった。なのにどうして和由さんと私たちはあんなにも擦れ違っていたのだろうと感じます。今にして思えば、松竹の社員は和由さんを信じていなかったし、和由さんも社員を信じておらず相互不信があった。映画も言ってみれば、ものづくり。心をひとつにできないのに、納得がいくものは作れるわけがなかったと思います」

(続く)