この30年間、奥山さんの映画に対するスタンスは全くブレていません。
「映画は不良のもの」
「映画でなければできない表現をしなければ価値がない」
「日本映画の作り手には健全なエネルギーが不足している」
という3つの考えです。
不良性という言葉には「光があれば影が生まれ、表があれば必ず裏がある」ことを内包しています。
『ハチ公物語』では忠犬ハチの惨めで悲惨な末路を描き、『遠き落日』では、息子の火傷は自分の不注意のせいだと己を責め続けた母親シカの苦悩を描くなど、道徳の教科書には載らない部分にスポットを当てています。
奥山作品の真骨頂は『いつかギラギラする日』『GONIN』『SCORE』といったピカレスク・ロマンにあると私は信じています。
筋金入りのワルたちがスクリーン狭しと派手にドンパチ戦う場面はアクション映画好きの評論家たちから拍手喝采を浴びました。
『いつかギラギラする日』を製作したとき、奥山さんはハードボイルド・アクションを愛する原点は映画『大脱走』のラストシーンにあるとプログラムの中で訴えていました。
「僕の映画製作には2通りの作法がある。ひとつは映画をショウビジネスの商品と捉え、その時々で確実にヒットするものを一般大衆のニーズから逆算し、その中に自分の生理感覚を当てはめていくやり方。もう一方は映画人の本能として生みたくて生みたくて撮り上げる場合であり、世間が受け入れようが受け入れまいとお構いなしに自己を顕示し、日本映画そのもののパワーをとり戻そうとするやり方である。『いつかギラギラする日』はまさに後者であり、ビジネスマンに片寄りがちな昨今の自分を解放させ、逸脱(ブロックアウト)させるための作品でもあった。(中略)この映画に登場する男たちはとことん泥臭く、したたり落ちる汗を拭う暇もなく常に走り続け、ダサく生きている。見栄や体裁を捨てても守りたいプライドや命より大事な仲間との関係に賭ける男たち——それは『荒野の七人』や『大脱走』が描いた、かつてのアメリカ映画の男性像に他ならない。『大脱走』では300人も脱走し、多くの犠牲を払ったのにたった3人しか残らなかった。しかし、ラストに主役のスティーブ・マックィーンが張りめぐらせた鉄条網をオートバイで飛び越えた時、観客は心から拍手を贈り、カタルシスを味わった。いわゆるアクション映画の醍醐味は、こうした究極のカタルシスにあると言えるだろう。」
自主規制やコンプライアンスという単語は奥山イズムには存在しません。
とはいえ日本の企業体質がそれらを軽視する者を放置するほど、優しくないことも彼は十分理解しています。これからも奥山流の映画づくりは茨の道を突き進むに違いありません。
彼の映画に対する体温の高さは次のメッセージにも表れています。
「もともと映画は生活の必需品ではありません。なくても暮らしに不都合なことはない。だからこそ観客を呼び込むには強い吸引力が必要なのです。テレビが日常的な娯楽を提供するメディアなら、映画は非日常性を打ち出すメディアとして存在しなければならない。多人数で観て、なおかつ時代を越えても受け入れられる価値観を持たなければ意味がありません。“テレビにできないことでも映画ならやれる”という独自性があって、はじめて映画らしさが活きてくると思います。」
「映画はあくまでも観客のもの。だからこそ原点に帰り、質の高さを追求する——それが今、映画界に求められていると思います。(中略)お客さんがお金を払ってくださる以上、優れたクオリティのエンターティンメントを提供しなければなりません。と同時にプロデューサーとして作品をヒットさせなければいけない義務もある。映画はショウ・ビジネスであり、産業のひとつです。文化的に優れていても赤字を出し続けていたら業界が衰退してしまう。この2つがナイス・バランスであれば映画メディアは娯楽の王道であった、かつての勢いを取り戻すと信じています。」
「戦前、戦後を問わず、素晴らしい邦画や洋画は21世紀を目前とする現在でも、まったく色あせずに観客を魅了しています。そうした優れた価値のある作品は映画産業の大きな資産でもあります。映画作品は、劇場だけでなく、ビデオになったり、テレビやCATVで放送されたりします。これからの映画づくりは二次使用も含め、質の管理がますます求められているわけです。メディアの形が変わっても、“映像”という共通の言葉で語られる高い価値であれば、映画のパワーは決して落ちないと思います。」
そして、映画の世界を志す若者たちに厳しいエールを送っています。
「普通ならやってはいけないことを体験できる快感——そうした危険な魅力こそ映画の醍醐味でもあります。なのに最近の若い人たちは“危ないからやめなさい”と言われると、素直に引き下がり、あえて冒険に立ち向かおうとしない。平成のキャンパスライフを「楽して生きたい」なんて思う人はこの(映画の)世界に不要です。自分の体を向かい風にさらしていくエネルギーがないと対応できません。いかにマンネリ化した日常から“逸脱(ブロックアウト)”できるかどうかがターニングポイントになると思います」
(いずれも1993年12月発行『J’S NEWS』(日本ジャーナリスト専門学校ニュース)1994年新春号より)